チャンスは偶然?

この物語は、ノートに手書きで記され、ロスアンジェルス国際空港のユナイテッド空港ラウンジの雑誌に、二つ折りで挟まれていた二十ページの原稿を元にしている。
(偶然にも、原稿が挟まっていたページには、「偶然対運命」と題された記事が特集されていた。)
物語の作者は不明である。
 
それは十二月二十三日のことだった。
私は午後六時のニューヨーク発、ロスアンジェルス行きの便に乗っていた。
乗客はすでに夕食を終え、空のグラスやコーヒーカップは回収されていた。食後の洗面所へのラッシュも終わり、多くの人々は毛布にくるまって眠りについていた。
私の席は機体後部にあり、横一列に並んだ五座席のうちの一つだったが、この列にいるのは私一人だけだった。とはいえ、機内はほぼ満席に近かった。
私は席を確保できてラッキーだと感じていた。証明の落とされた薄暗い機内のところどころで灯された読書灯の光が、おのおのの座席に吸い込まれていた。
私は夜間飛行のこんな光景が好きだった。それは「セント・ニコラスの来訪」という小説の中の、「そしてみな長い冬の眠りにつきましたとさ」という一説を思い出させた。鉄の塊が地上一万メートル上空を飛んでいる、という事実は決して安心できるものではなかったが、それでも私の眼前に展開しているこのおなじみの光景は、いつも私をくつろいだ気分にしてくれた。
絶え間ないエンジン音以外、機内は物音一つしなかった。そして時折機体が揺れる以外、あたりには何の動きも認められなかった。
このまま起きていても特にすることもなかったが、かといって無理に眠りにつこうという意思もなく、私はただ座席にもたれてぼんやりとしていた。
 
ウトウトしかけた私に、突然スチュワーデスが話しかけてきた。


「すみません、ミスター・フェア」


彼女は身をかがめ、私の顔をまっすぐに見つめながらささやくように言った。


「ファースト・クラスのご婦人がご気分を悪くされて、横になりたいと言っておられます。恐れ入りますが、席をかわっていただけますでしょうか?」


私はほとんど考える間もなく、反射的に答えた。


「いいですとも」


「エスコート」にしたがって、私はカーテンで仕切られたファースト・クラスに向かって歩を進めていた。
別の通路では、スチュワーデスに付き添われた老婦人が、反対方向に向かって歩いていた。あのご婦人と席をかわるのに違いない、と私は思った。でも、乗務員はどうして私が依頼を承諾すると思ったのだろうか? いや、と私は考え直した。はじめから私には選択権などないも同然だったのだ。
 
スチュワーデスはカーテンを持ち上げて、私を通してくれた。私は彼女にお礼を言って、ファースト・クラスに足を踏み入れ、あたりを見回した。
ここには専用のキッチンやトイレがあり、すべてはエコノミー・クラスよりも大きく、広々としていた。空席は二席あった。どちらが自分のための席なのだろう?


「どうぞ、あちらへ」


スチュワーデスは微笑んで、最前列の通路側の席を指さした。隣の窓側の席には、男性が座っていた。


「ありがとう」


私はゆったりとした革張りの「安楽椅子」に腰掛けて、シートベルトを締めた。
なんてここは広々としているんだろう。私は新しい環境に慣れるために、あたりをキョロキョロと見回した。そのうちに、さまざま疑問が私の心にわいてきた。


(ファースト・クラスの席はいくらぐらいするだろう?)
(ここにいるのはどんな人たちなのだろう?)
(彼らはいったいいくらぐらい稼いでいるのだろう?)
(もちろん、周囲の人々は私がエコノミー・クラスから移ってきたことを知っているに違いない・・・)
 
「ミスター・フェア、何かお飲み物をお持ちいたしましょうか?それとも軽いお食事はいかがですか?」


話しかけてきたのはファースト・クラスのスチュワーデス、しかも目の覚めるような美女だった!彼女の美しさにたじたじとなった私は、思わずどもってしまった。


「あぁ、えぇ、その、そうだな、ミネラル・ウォーターをお願いします」


スチュワーデスが私の動揺を察したのは疑いなかったが、もちろん彼女はそんな様子は少しも見せなかった。


「炭酸入りをお好みですか、それとも炭酸なしで」


微笑みをくずすことなく、彼女は辛抱強く聞いてきた。私はかつて機内でこんなことを聞かれたことはなかった。


「ええと、炭酸入りをお願いします」


これで、すべてが終わった、と私はほっとした。しかし、そうは問屋がおろさなかった。


「レモンかライムのスライスをおつけいたしましょうか?」


彼女は執拗に攻撃をしかけてきた。彼女の表情がこれほど愛らしくなかったら、私はたぶん自分がからかわれているのだ、といじけていたに違いない。


「ええ、そう、ライムをお願いします」


答えながら私は、何かこれ以上聞かれることがあるのだろうか、とヒヤヒヤしていた。


「かしこまりました。それではお飲み物のおつまみに、ミックスナッツはいかがでしょうか?それてもフルーツとチーズ盛り合わせをご用意いたしましょうか?」


ああ、もうやめてくれ!


「いいえ、ミネラル・ウォーターだけで結構です。どうもありがとう」


彼女は、それまで以上にニッコリと微笑み、振り返って、すぐ目の前のキッチンに姿を消した。
 
私はこの新しい環境に、しだいに慣れてきている自分を感じていた。
スチュワーデスが水を持って戻ってきた(プラスチックではなく、本物のクリスタルのグラスだった)。彼女は、隣の窓側の席と私の席との間にある、テーブルのような大きな肘掛けから、小さなトレーを引き出してコースターを置き、その上にグラスを置いた。
ファースト・クラスでのこの新しい体験を、眠りで浪費してしまうのはあまりにも惜しい、と感じた私は、水をすすりながら周囲を子細に観察し、すべてを自分の中に取り込んでしまおうと努めていた。
しかしながら、灯台もと暗しとはよく言ったもので、隣に座っている男性に、私はほとんど気づかなかった。


「ちょっと失礼します」


隣の男性はすでに立ち上がり、私が足を引いたら通路に出ようと待っていた。


「いいですよ、私のほうこそ失礼」


とはいえ、実際のところ、私が足を引く必要はほとんどなかった。ファースト・クラスでは、座席間のスペースが実にゆったりと取ってあったからだ。私は彼の職業が何なのか、思いをめぐらせた。
彼は戻ってくると、私の席の前で立ち止まり、ご迷惑をおかけして申し訳ありません、とでも言うかのようにかすかに微笑んだ。


-私は彼が誰かを知っている!


「どうもありがとうございます」


彼はそういいながら、私に笑いかけた。そして私は、そのとき彼の顔をじっくりと見つめた。
 
確かに彼だった!
 
私は、生命保険のセールスマンとしては右に出るもののいない、フランク・ディーンの隣に座っていたのだ。
一般の人はフランク・ディーンのことをたぶん知らないだろうが、彼は保険業界では伝説的な存在、偶像のように奉られている人物である。今日では大物との取引だけを扱い、ふだんは高給のコンサルタントとして活躍していると聞く。
 
私が彼のことを最初に聞いたのは、かれこれ二十年以上も前、私の父が保険業界に足を踏み入れたときにさかのぼる。当時私は中学生だったが、父が会社の全国総会から帰ってきたときのことはいまだに忘れられない。フランク・ディーンはその総会に、講演者として招かれていたのだ。
今となっては詳細は思い出せないものの、父が彼の講演を聞いていかに興奮していたかは鮮明に覚えている。その後何ヶ月、いや何年にもわたって、父は彼が講演の中で語った話をことあるごとに引き合いに出していた。
 
成人して、妻子を養うために私は生命保険の勧誘に手を染めたが、その仕事があれほど大変なものだとは予想だにしていなかった。そして私は、この時ほど父を尊敬したことはなかった。
保険のセールスマンとして働いていたあの長くつらい日々の過程で、私は何度も父やフランク・ディーンのことを考えた。
しかし、自分は決して彼らと歩みを同じくすることはできないだろう、とも感じていた。保険を売るという仕事は、私にとって決して楽しいものではなかった。にもかかわらず、私がその仕事を続けていたのは、単に二つの動機づけがあったからにほかならない。それは自分のビジネスを持つということと、手っ取り早くお金をもうけるということの二点だった。
そうはいっても、私が働いていた代理店の職業倫理や道徳観念は地に落ちたもので、ちょうど場末の移動遊園地を連想させるような安っぽさがあった。私は、父やフランク・ディーンが働いていたような、もっとちゃんとした会社で働きたいものだと感じていた。言うなれば、移動遊園地からディズニーランドに移りたかったのだ。
その後、私は不動産業界に転進したのだが、そこではそれなりの成功をおさめることができた。
私は、南カリフォルニアではちょっとは名の知られた存在となった。あるとき、不動産関係の出版社から本の執筆の話を持ちかけられ、これに応じたところ、この著作は同社のベストセラーになったのである。
それをきっかけに私は、その会社がアメリカ各地で主催してるセミナーの講師として招かれることとなった。当初は地元からスタートしたが、その後アメリカ中を行き来するようになり、結果として頻繁にこのような夜間飛行を利用することになったのである。
フランク・ディーンに遭遇したこの日、私はマンハッタンで開かれた午前中のセミナーでしゃべり、帰宅の途中だった。しかし、この日帰り旅行がこれほど素晴らしいものになろうとは、誰が予想し得ただろうか?
 
「ディーンさん、あなたですね?」


こういった直後に私は、いかに自分が間の抜けた言い回しをしたのか、ということに気がついた。だがいまさらあとの祭りだ。私は期待に目を大きく見開き、同時にどぎまぎしながらそこに座っていた。体は不快なほど熱くなっていた。
微笑が彼の顔に浮かんだ。彼はちょうどうつむいてシートベルトを締め終えたところだった。そして私のほうを向き、右手を差し出してこう言った。


「はい、私はフランク・ディーンです。はじめまして」


私はサンタクロースに出会った小さな子どものように見えたに違いない。彼の手を握り締め、必要以上に長く上下に振り続けていたのだから。しかし、彼はそれを気にとめているふうでもなかった。


「お会いできて光栄です。私はビル・フェアといいます」
「あなたも保険業界にいらっしゃるのですか?フェアさん」
彼は笑顔でたずねてきた。
「ええ、というか、もう昔の話ですが。私の父も同じ業界にいたんです。」
「それでは保険屋の家系ということですね」
彼はそういって微笑んだ。
「ええ、そうですね。でも、父はそれなりに成功したんですが、私は残念ながら鳴かず飛ばずでした」


彼はおだやかな表情のまま、うなずいた。そして・・・沈黙が訪れた!
フランク・ディーンはきわめて感じよく、礼儀正しい紳士だった。でも、この会話をはじめたのは、そもそも私なのだ!
私は即座に現状を分析し、この会話を続ける役目を担っているのは自分なのだという結論を下した。思慮分別に欠けるのではないか、という迷いも頭をかすめたが、それはすぐにものすごいプレッシャーで押しつぶされてしまった。この巨人に聞くべきことは山ほどある、と私は感じていた。
 
「ディーンさん、私の父はあなたのことを崇拝していました。父が最初にあなたの洗礼を受けたのは、ニューヨークで開催されたミューチュアル・オブ・ニューヨーク(父の勤務していた会社の名)の全国総会で、あなたの講演を聞いた時のことでした。」


彼は私を見つめ、微笑んだ。


「そのころ私はまだ子どもでしたが、あなたが父にどれだけ大きな影響を与えたかということは、よくわかりました。父はその後何年にもわたって、あなたの名前を事あるごとに持ち出していました。ですから私は子供心に、あなたが偉大な人物だということを悟ったのです。父は心からあなたのことを尊敬していましたから、その影響でわたしもあなたを尊敬していたのです。-というか、いまでも尊敬しています」
「ありがとう、ビル。それでは現在、あなたはどんな仕事をしておられるのですか?」


この質問のしかたで、私は彼との会話が単なる世間話以上のものに発展していく、ということを感じ取った。


「そうですね、不動産の専門家といったところでしょうか。現在は出版社の主宰するセミナーで、講師をつとめています。言ってみれば、その会社が私を“発掘”してくれたんですよ」


そういって私は笑った。


「ああ、著述家ということですね!本の売れ行きはどうですか?」


彼がたずねてきた。


「ええ、それなりに売れています。ただ、書店で販売されているとか、そういったたぐいの本ではないのです。不動産への投資を考えている人のために書かれた本ですから」


私は自慢話に聞こえないよう、言葉を選びながら説明した。
 
「まったく人生というのはおかしなものだ。何がどう幸いするかわからない。-あなたは現在の成功をどう感じていますか?」


ディーン氏は私の目をじっとみながらたずねてきた。これはありきたりの質問ではなかった。彼は何かを私に伝えようとしている・・・。


「そうですね、これまで多くの本を読んだり、セミナーに参加したりしてきましたが、そのどれもが同じことを主張していました。つまり、自分の願望を心の中に描くことで、現実のものにすることができる、ということです。もっと言えば、心の中に自分の望むことを描き、それを信じれば、すべてが達成できるということです」


そういったとたん、ディーン氏は笑いだした!
私は当惑し、再び体がサッと熱くなるのを感じた。何かばかげたことでも言ったのだろうか?


「ビル、君のことを笑っているのではない。私は自分自身のことを笑っているんだよ。君が今言ったようなことを、私もかつてそっくりそのまま信じていたし、人に教えてもいた。いや、信じていたというより、何度も同じことをしゃべっているうちに自分自身を納得させてしまった、というほうが正しいかもしれない。-ビル、では、今君が言ったようなことを、実際に体験したことがおありかな?」


私は必死になって考えていた。


「うーん、そうですね。自分には効き目がなかったみたいですけど。ええ、確かに考えてみたら、一度もそんな経験をした記憶がありません。」


私は突然、現在の自分の成功が、努力や信念の賜物ではなかったことに気がついた。それは単に「起こった」のだ。
 
奇妙なことに、このことを口にした瞬間、不思議な安堵感が私を満たした。これまで何度も同じことを心の中で自問自答したことはあるのだが、そんなとき私はいつもそのような考えを単なる疑惑として抑圧し、葬り去っていたのだ。
しかし今、こうしてディーン氏の横に座り、それを口にしたとたん、私は自分が真実を語ったのだ。ということを感じた。そして肩の荷がおりたような気がした。ディーン氏は、それを見て取ったようだった。


「ビル、君はたった今、新しい人生の第一歩を踏み出したんだよ。これは、この世ではほとんどの人が見過ごしていることなんだ。君は今、人生の重要な分岐点に到達した。この道をずっとたどっていけば、君は必ずや本当の自分の家に帰りつくことができるだろう」


ディーン氏は私の腕をつかみ、そう語った。彼は心底嬉しそうだった。


「それはどういう意味ですか、ディーンさん?」
「ビル・・・」


ディーン氏は何か重要なことを私に伝えようとしていたが、どうやってそれを表現したものか迷っているふうだった。
彼は唇を真一文字に結び、頭をやや横にずらして、少しの間私に視線を投げかけた。しかし、なかなか言葉は出てこなかった。彼はいまだに考えあぐねているようだった。
彼の顔をじっと見つめな~待っているうちに、私の頭の中にさまざまな考えがわいてきた。
彼は感じのよい、物静かな人物だった。もう六十代も後半に違いない。美男子とかハンサムとかいうタイプの風貌ではなかったが、落ち着きや内に秘められた芯の強さといったものが感じられ、それが彼の魅力になっていた。
私はぜひ彼の言葉を拝聴したいと願っていた。この人が他愛ない世間話に憂き身をやつすようなたぐいの人物ではないことを、本能的に私は知っていた。
 
「ビル、君はいつも何かがおかしいとか、思い通りにことが進んでいないとかいう恐れを抱いているのではないかね?」


私は一瞬躊躇した。そして、はじめは彼が肉体的なことを言っているのかと勘違いした。つもり、病気でもないのに痛みや苦痛があると錯覚しているのではないか、と聞かれているのかと思ったのだ。
しかしすぐに、そうではなくて、彼が言わんとしていることは人生全般にわたることで、私の頭上に垂れ込めている「暗雲」のことを言っているのだと理解した。
でもどうして彼は、それがわかったのだろう?!


「そうですね」


私はそう言ってうなずいた。


「おっしゃるとおりです。私はほとんどいつもそんなふうに感じています」
「ふむ、実のところほとんどの人は、そんなふうに感じながら一生を終えるものだ。君は、ヘンリー・デヴィッド・ソローの語った次のような一説を聞いたことがあるだろうか?-ほとんどの人は心の中で静かに苦闘し続けながら一生を終え、見果てぬ夢を抱いたまま墓場へ向かう」


私はよほど気落ちしているように見えたに違いない。


「ビル、これは決して悪い知らせではない。むしろ素晴らしい知らせなんだよ!たとえば、世界中の人々が飢饉で苦しんでいたと仮定してみよう。そして、みんなが尽くせるだけの手を尽くしたにもかかわらず、状況に何の改善も見られなかったとしよう。もしもここで誰かが飢饉の解決策を見つけだしたとしたら、素晴らしいことだとは思わないかね?」
「ええ」


私は答えた。しかし不思議なことに、私は確信をもってそう解答したわけではないことに気がついた。
私は当惑した。それが素晴らしい知らせであることに疑いはないのに、なぜそう素直に認められないのだろう?なぜこの明白な事実を受け入れられないでいるのだろう?私の目は宙をさまよっていた。


「ビル、君は今、自分の答えに確信が持てないでいるのだろう?それが諸悪の根源なんだ。世間が悪いんじゃない。」


彼は私の気持ちがあやふやな状態にあるのを知っていた。私の答えが論理に基づくもので、心から納得したいものではないことをわかっていた。


「ビル、君の困惑した表情がすべてを物語っているじゃないか。君はいま、人生における重要な分岐点に立っている、ちなみにここまで到達できる人はめったにいない、と言っていい。これから素晴らしい秘密が君に明かされることになるんだ。この地点まで到達し得た歴史上の賢人たちは、その記念すべき瞬間を人に語ったり書物に記したりしているんだよ。」
「本当に?」


間の抜けた返答であることはわかっていたが、私はそれ以外言葉の返しようもなかった。


「そのとおり。中でも抜きんでているのは、ロバート・フロストによる次のような言葉だ。-森の中を歩いていたら道が二つに分かれていた。私は人があまり歩いていないほうを選んだが、それは正しい選択だった。
それでは君の番だ。これまでに困惑したり、答えがあやふやで見えなかったような事例をできるだけたくさん思い出してごらん。」


彼はそう言って微笑んだ。
 
いまや私の頭はグルグルとまわりはじめていた。ディーン氏の語ったわずかな言葉に、なぜこれほどのインパクトがあるだろうか?
なぜかわからないが、私は聖書の中のダビデとゴリアテの話を思い出していた。


「ビル、われわれが一緒に過ごせる時間もわずかになってきた。この飛行機はまもなく目的地に到着して、その後われわれが出会うことはおそらく二度とないだろう。君の心に今夜種が植えつけられた。ちゃんと肥料を与えていたら、その種は君が想像できないくらいの高みにまで成長するだろう(聖書のからし種の話を覚えておいでかな?)実のところ、想像なんてしないほうが賢明というものだ。それによって君は、自分自身にみずから枠組みをはめてしまうことになるだろうからね!」


ディーン氏の顔は、今や輝いていた。彼は私の中にある種の可能性を見出したのだ。そしてそれを一生懸命開拓しようと心に決めたのだった・・・。
私は心の奥深い部分で、これから自分に素晴らしい秘密が明かされる、ということを知っていた。また今自分の頭の中でひしめいている数々の質問を、とりあえずは内にしまっておいたほうがいい、ということを感じていた。
ここのところは受身に徹しよう。私はシートにもたれかかり、叫びだしたなるような衝撃をおさえるのがやっとの状態だった。


「さあ、早く続きを!」
 
「君はこの世に生を受けて以来、自分の思考にしたがって生きてきた。ものごとを成就するためには信じるだけでいい、という誤った考えを受け付けたのはほかならぬ君自身の思考だったんだ。君はそいつから指令を受けていたんだね。そして、あまりにも自分の思考に深くはまり込み、同一化してしまった結果、思考イコール君、という分かちがたい状況になってしまったんだ。いまや思考と君との間にはほとんど境目がない状態となり、潜在意識レベルでほほぼ自動的に機能しているといっていい。したがって、現在両者の間に分離が起こりうるのは、唯一きみの心に暴力的な衝動、反社会的欲求が発生したときに限られている」


彼にはどうしてそんなことがわかるのだろう、と私は思った。


「ビル、実のところわれわれは、思考を作り出しているに過ぎないんだ。人間というのは、我々が考えているような思考形成機ではない。むしろラジオのように受信しているだけなんだよ」


彼はどうしてこんなことを知っているんだ?どこで習ったんだろう?


「ビル、現時点ではそれがなぜか、というこにこだわる必要はない。とにかく私のいうことに耳を傾けて、できるだけそれを吸収するように努めてほしい。これからの道にしたがって歩いていけば、現在君の頭の中でひしめいている数々の質問には、おのずと解答が与えられることだろう。
我々の頭脳は超精密なコンピューターなんだ。実際、科学はそのことを日々実証し続けている。君の頭脳は、どうやって食料を調達するか、とか、どうやって金をもうけるか、とか、あるいはどうやって機械を修理したらいいか、といった現実的な問題に、現実的な解決策を与える強力な問題解決用のコンピューター、というわけだね。でも早い時期に我々は、この頭脳が我々を支配するのを許してしまった。頭脳というものは召使いとしてはうってつけだが、支配者としては手のつけられない厄介者なんだよ。ビル、君は今日、腹を立てたかね?」
「はい」


私は、今日一日のできごとを思い出しながら注意深く答えた。この日は数回、腹を立てていた。


「じゃあ、落ち込んだことは?」
「そうですね。何度か・・・」


だがこの答えには少し嘘があった。本当は私は「何度か」以上に落ち込んでいた。
ディーン氏は身体を少しずらした。次に言わんとしていることを、彼がいかに簡潔明瞭に表現しようと心を砕いているかがわかった。


「ビル、起こった結果、何か君が得たものがあるかい?」


彼は静かにたずねてきた。
私は一瞬考え込み、そして彼の質問に答えた。


「いいえ。何もありません」
「実際何もないどころか、何かを失ったのではないかね?怒ることによって自分や相手が傷つくだけで、ほかに得るものがない、ということは明白だろう?しかも、相手が君の怒りに気づかない場合も多い。ということは、その場合、怒りによって傷ついたのは誰かね?」
「-自分だけです」


私はそういう結論を出した。


「あまり賢いやり方とはいえないだろう?」
「そうですね。実のところ愚かな行動だと思います」


私は答えた。


「ビル、そうすると次のような質問が自然に浮かんでこないかね?つまり、なぜ我々
は怒りによって自分自身を傷つけようとするのか、ということだ」


ディーン氏は、私があっけにとられているのを見て取り、話を続けた。


「もちろん、我々は故意に自分自身を傷つけようとはしない。でも、怒りが肉体的にも精神的にも有害だ、ということは知っている。ということは、無意識のうちに行動していた、ということになる」


彼は間を置き、微笑んだ。今行ったことを、私が完全に理解するように気遣ってくれたのだ。私は、彼がゆっくりと説明してくれるのをありがたいと思った。
そして、彼は私を見て、まるで「ここまでは理解できたかな?続けてもいいかな?」とでも言うかのように、眉を上げた。
私の頭はかなり速いスピードで機能していた。彼の言葉を完全に自分のものした私は、うなずき、続きを要求した。


「よろしい」


彼は私の進歩に満足して話を続けた。
 
「頭脳というのはあまりにもよくできた機械なものだから、それ自体で一種の人生を構築しうるんだ。それは常に、自分の言い訳を通そうと自己主張している」


この言葉は、容易に受け入れるにはあまりにも新しい概念だということを、彼は理解していた。そして彼は両手を上げ、私に向かった手のひらを軽く押し出すようなジェスチャーをして、落ち着いてゆっくりと理解してくよう示した。
彼は話を続けた。


「何かできごとが起こるたびに、君の頭脳はそれをそのまま受け入れずに、君を刺激して何らかの反応を引き出すような形で君に提示する。例をあげてみよう。君が車を運転中、誰かが無謀に君の前に割り込んできたとする。そんなとき、君はどうする?それに対して反応を示すんだ。君はその運転手に腹を立てて、仕返しをしてやろうともくろむかもしれない。ひょっとしたら危険をかえりみず、お返しにまったく同じことをしでかすかもしれない。しかし、それが賢いやり方だと言えるかね?自分の命を危険にさらす行為は、自分自身をしっかりとコントロールしている人物がとる、正常な行為といえるかね?もちろん答えはノーだ!たとえ割り込み運転をしなくても、仕返しの方法は人によって千差万別だろうが、そのどれをとっても、常軌を逸した、破壊的な行為だ。しかし、それが我々の頭脳の実態なんだよ」


ディーン氏は椅子にもたれた。彼が話しを終えたわけではないことはわかっていたが、私はこの機会を利用して質問を試みた。


「でも、それ以外に何があるというのでしょう?」


この質問を発した瞬間、私の身体はまた熱くなった。愚かな質問のようにも思えたが、同時に純粋な質問でもあった。
私はこの状況に圧倒されそうになっている自分を感じていた。


「その「それ以外のもの」こそ、君の魂が真に欲してやまないものなんだ。にも拘わらず、君の魂は限られた輪の中を行ったり来たりして、決してそれを見つけられないでいるんだね。堂々巡りをするのは、君がその解答を君の頭脳に求めているからだ。でも頭脳は決して新しいことを君に教えてくれるわけではない。だから、君の魂は輪の中を行ったりきたりして、外に出られないでいるんだね。-せいぜい自分のほしいものを考え出して、それを手に入れられると信じるがいい。でもそれによって君の魂が欲してやまない真の幸福や、成功、そしてやすらぎを勝ち取ることは決してできないだろう」


彼には、この話題が私にとっては大きすぎるテーマで、完全に自分のものにするまでには多少の時間が必要だということがよくわかっていた。私が大きなインパクトを受けていることを表情から見て取って、微笑んで話を続けた。


「ここで君に、今わたしが行ったことをわかりやすく表現した一つの物語を聞かせてあげよう。このお話は、一度きいたら忘れることはできないだろう・・・。
 
昔々、あるところに一人の牧場主がいた。彼の友達や隣近所の人々は、この男のことを金持ちで幸福だと思っていた。なぜなら彼は、広大な土地と多くの優れた馬、そして仕事を手伝ってくれる、屈強で健康な息子を持っていたからだ。
ある時、彼の牧場の柵が壊れて、すべての馬が逃げ出してしまった。そして、友達や隣近所が集まってきて、「これは残念なことだ。とても、とても残念だ」と言った。
これに対して牧場主は、「どうしてこれが残念なことなんだ?」と答えた。
二、三日して、すべての馬が戻ってきた。しかも、美しい一等の野生の馬をしたがえていた。このあたりでは見かけたことのないような、優れた品種の馬だった。
牧場主の友達や隣近所が集まってきて、「これはよいことだ。とても、とてもよいことだ」と言った。
これに対して牧場主は、「どうしてこれがよいことなんだ?」と答えた。
さて、牧場主の息子がこの野生の馬を手なずけようとしてしたところ、放り出されて足の骨を折ってしまった。友達や隣近所が集まってきて「これは残念なことだ。とてもとても残念だ」と言った。
これに対して牧場主は再び、「どうしてこれが残念なことなんだ?」と答えた。
さて、国が戦争をはじめ、政府の役人が息子を徴兵しようとした。しかし息子は身体が不自由だということで、徴兵は見合わされた。
この知らせを聞いた友達や隣近所の人々は、「これはよいことだ。とてもとてもよいことだ」と言った。
しかしくだんの牧場主は、頭をかいて「どうしてこれがよいことなんだ?」と答えるだけだった。
 
ディーン氏が尋ねてきた。


「この物語の中で、君はどちらの側に属しているかな?」
「友達や隣近所の人々のほうです」


私は答えた。


「それでは、勝者はどちらだね?」
「賢い牧場主です」
「そう、それではここで、君の理解度を高めるために、同じ質問を次のように言い換えてみよう。この物語の中で、本当に成功した人生を送ると思われるのはどちらかな?-ここでいう成功した人生というのは、お金を賢く投資して、ビジネスを上手に運営していく能力、といったものも含まれるのだが」
「牧場主です」


そう答えた私の顔に、微笑が浮かんでいた。


「なぜだね?」


フランク・ディーン氏は、わかっていることをたずねているのだった。


「なぜなら-」


ゆっくりと私は答えた。


「友達や隣近所の人々は、輪の中を堂々巡りしているからです。一方牧場主は先を見通しています。」
「そうだ。今度、とりとめのない考えが浮かんできたり、有害な感情におそわれて自分を見失いそうになったりしたときは、今の物語を思い出してごらん、ビル」
「我々が考えることは、単に有害な感情だけの所産なのですか?」


私は思わず頭の中で考えていることを口にしてしまった。


「私はかつて、ある有名な映画スターと個人的に話しをする幸運に恵まれたことがある。彼女はいまだに健在だから、一応名前は伏せておこう。名もない端役からスタートして、最高のスターダムにまで昇りつめた人物だ。彼女はまた、我々が今話したようなことをよく理解している人でもあり、会話の中で私にこんなことを言っていた。「フランク、くれぐれも成功とか失敗とかいった見てくれだけの体裁に惑わされないでね」-この言葉をよく覚えておくがいい、ビル。
それでは君の質問に答えよう。思考は感情を餌にして繁殖する。それが君をとらえてしまうんだよ。善と悪、成功と失敗、高揚と落胆、すべて対極にある。君のこれまでの人生というのは、片方を勝ち取るために、もう片方を避けようとして終わりなき戦いを繰り返してきた。君は奴隷だ、違うかね?思考が君に投げかけてきたこの二つの構図を、唯一の可能性と信じて疑わなかったのではないかね?」
「それではいったい、ほかに何があるというのですか?」


この質問を二回繰り返している、ということは承知していたが、私は思わず口を挟まずにはいられなかった。
 
ディーン氏は大きく微笑んだ。彼の話はいよいよ盛り上がろうとしていた。


「それは君が見つけるんだよ、ビル。何かが高みにある、世間や君の頭脳が人生と呼んでいる、終わりなき戦いの輪を超越した何かが、そこにある。崇高でやすらぎに満ち、深い理解と英知を備えた何かがある」
「では私は、どうすればいいんですか?」


私はとどめの一発を期待しながら、背筋を伸ばして席に座りなおした。
ディーン氏は再び口を閉ざした。その短い沈黙が、私には数分のようにも思えた。


「何もすることはないんだよ。何ができる、というものでもない。一つの例外をのぞいてはね」


彼はまたここで、間を置いた。


「君ができる唯一のことは、実際にそこで何が起こっているのか、状況をよく「見る」ことだ」
「たったそれだけですか?だったら簡単だ・・・」


ディーン氏は笑いだした。しかしそれは嘲笑ではなく、私に対する理解に裏打ちされたものだった。私は狐につままれたような気持ちでそこに座っていた。
 
「ビル、君はほとんどの時間、自分の思考の中に埋もれてわれを忘れてしまっているんだよ。99.99パーセントの時間、君は自らの思考によって喉首をつかまれているも同然なんだ。両者の間に分離はない。君イコールその思考なのだ。ということは、君イコールその怒りであり、落胆であり、興奮なのだ。」
「99.99パーセント、とのことですが、それでは残りの0.01パーセントの時間、私が我を忘れていない状態にあるのはどんな時なのでしょう?」


自分自身に救いを求めるような気持ちで、私は質問を発した。


「ビル、君は日の出や日没、海などの自然の美しさに息を飲んだことがあるかね?あるいは交響曲や美術品に感動したことがあるかね?そんな感動こそ、純粋な自然からの贈り物なんだよ。自然、つまり真理からの贈り物に対する高貴なる反応だったんだ。君はその感動を自分で作り出したのではなく、受信したんだ。君が日常抱いている考えや感情といったものはすべて、君の頭脳が画策して作り上げた見せかけの概念に過ぎない。君の頭脳は壮大な夕焼けを作り出すことはできない。せいぜい怒りや恐れといった感情を作り出すのが関の山だ。考えてみれば、残念な話だね」
「それでは思考することで我を忘れてしまわないためには、どうしたらいいのでしょう?」
「ビル、君はさっきから貧乏ゆすりをしながらひじかけをギュっと握りしめているのに気づいているのかね?」


私は下を見下ろして、彼のいっていることが正しいこと認識し、赤面した。私は貧乏ゆすりをやめ、肘掛を握り締めている両手をゆるめた。どうしてこのことに気づかなかったのだろう?


「君が自分のしていることに気づかなかったのは、自分の思考に埋もれてしまっていたからなんだよ、ビル」


ディーン氏は、私の無言の疑問に答えながら話を続けた。


「思考することで我を忘れる、というのは、まさに君の頭の中や身の回りで起こっていることに気づかない、という意味だ。君はこんな経験がないかね?あるいは、誰かがそんな話をしているのを耳にしたことくらいはあると思うのだが。-車を長時間運転していて、突然、それまでの三十分間いったい何が起こったかまったく記憶がなくなる、ということがある。ビル、これは危ない兆候だよ!でも、それが我々の頭脳の実態というものだ。考えみれば、こんな状態で世界が何とか機能している、というのは奇跡とも言えるね」
「ディーンさん、なんて素晴らしいことを教えていただいたんでしょう!でも、あなたがおっしゃるよりも、もっと多くの人々が、このことに気づいているのではありませんか?なぜ私だけが、このことを勉強できる特権に恵まれたんですか?」
「またまた君の頭脳がムダ口をたたきはじめたね。そういう質問が、高次元に通じる道を妨害してしまうんだよ。君がこれから君自身の頭脳のやりかたに疑問を抱き、その目的にはむかっていったら、きっと戦いをしかけられると思うよ。時にはゴリアテと戦うダビデのように感じるかもしれない」
「それは怖いですね。まるで頭脳がそれ自体で命をもっていて、私の幸福を邪魔立てしているみたいなものですね」
「君の人生は君のものだ。ところが君は、それを長いことそいつに譲渡してしまっていたんだ。頭脳と高次元中枢という、この人間の両面性に気づいている人は、決して少なくないはずだ。「ジギル博士とハイド氏」という小説が傑作として読み継がれ、すたれないのは、我々がこのような人間の二面性に気づいているからにほかならない。ただ、気づいていてもそれを認識しようとはしない。ましてや、我々みんなが持っているこの頭脳というじゃじゃ馬を手なずける作業をしようという奇特な人は、この世でもごくごく限られた存在に過ぎない。」
「作業?具体的にはどんな作業なのですか?」
「常に覚醒し、我々の中で起こっているさまざまな活動の一端を理解しようとするのには、多大なエネルギーが必要だ。知らず知らずのうちに貧乏ゆすりをしていたり、肘掛をギュっと握り締めていたり、三十キロもの道のりを無意識の状態で運転する、というのは、思考の中に埋もれ、精神的に眠っているからにほかならない。我を忘れていたら、頭の中をとおり過ぎるありとあらゆる感情に振り回されることになる。その感情は、どれをとっても君に苦痛をもたらすだろう。精神的に覚醒する、ということは、瞬間瞬間の君の現在位置を確認することだ。床を踏んでいる君の足を意識し、君の顔に触れている空気の温度を感じ、現時点で君の頭の中で何が行っているかを探ることだ。君の頭を急流だと過程してみよう。この川は決して枯れることがないだろう。もしも君がこの急流を見つめていたとしたら、君は川の「中」にはない。しかし、急流を見ていなかったら、君は流れの中にはまってしまっていることになる。どうだね、わかってきたかな?」
「はい、そう思います」
「とにかく、見て、見て、見続けることだ。そこからすべてが始まるんだよ、ビル。今度人に会ったら、君がその人をどんなふうに感じているか認識してごらん。そして、恐れているのなら、それがなぜなのか自問自答するんだ。君がその人から何かを得ようとしており、それが恐れの原因となっているのだ、ということがわかるだろう。-何を得ようとしているかって?彼または彼女が、君の価値を認めてくれる、ということさ!君はさっきスチュワーデスと会話していたとき、そんな様子だったね。」


その言葉は、私にはとてもこたえた。それが真実だったからだ。


「こういったことを認識するたびに、君はショックを受けるだろう。しかし、このようなショックは数が多ければ多いほどいいんだ。それによって君は、覚醒し続けていられるだろうからね。
君の内部や周辺で何が起こっているのか、理解することをこれからの君の日課にしたらいいよ。最初のうちは一日に二、三回しか思い出せないだろうが、辛抱強く続けていたら、覚醒している時間がしだいに増していくだろう。これはちょっとした労働だよ、ビル。確かに疲れる作業だし、頭脳のほうも君を眠らせようとして、かなりの攻撃をしかけてくるだろう。でも、やればやるほど、この課題がそれだけ努力のしがいのあるものだ、ということを理解できる日がいつかやってくるだろう。なぜなら、君の魂が真に望んでいるものを与えてくれるのは、覚醒をおいてほかにないからだ。」
「ああ!この小旅行がこれほど素晴らしいものになろうとは、予想だにしていませんでした!でも、あなたからこれだけ多くのことを教わって、まるで新しい重荷を背負わされたような気分でもあります」
「それは、君の頭がまだ反応しているんだよ、ビル。英知を備え、常に新しい決断能力を持ち、恐れや怒りや落ち込み落胆から開放された人生を、重荷といえるかね?そんな考えはばかげていると思わないかね?だから今の言葉は、君の頭が考えだしているものなんだ。その頭が、これまでの君の人生を牛耳ってきた。もちろんそれは君だけに限らない。世界中の人々が、みな同じ状況にあるんだ。もっとも、ほとんどの人は少なくとも一生に一度は、別の道を選ぶチャンスに恵まれるとは思うのだがね。これは確かに困難な道ではあるが、いったん歩き始めたら決してはずれてはならない。聖書にあるように、一度土地を耕したら、決して振り返ってはならないんだ」
「それでは、この世のほとんどの人が結局別の道にたどり着けないのだとしたら、その人は・・・」
私は思わずひとりごとを言ってしまった。
「・・・その人が持って意潜在能力よりもはるかに低いレベルで存在し続け、偶然の法則に振り回されながら一生を終えることだろう」


ディーン氏は、私の言葉を受けて、またまた地を揺るがすような結論を下した。彼は、私が今の言葉に反応することがわかっていたため、ここでいったん間を置いた。


「偶然の法則?」


というのが、私に言える唯一のことだった。


「もしも人々が、自分の内外で起こっていることに気づかないまま、将来のことを心配し続けながらあてどもなく夢遊病者のようにさまよっていたら、それはいったい何だろう?」
「うーん、そうですね。ロボットですか?」
「そう、単なる機械だ!それでは、そんな機械をいくつか部屋に放りだしたらどうなる?」
「・・・混乱が起きますね」
「そのとおり!人生というのは、まさにその言葉に当てはまるのではないかね?混乱そのものではないかね?」
「ええ、はい、そう思います」
「その通りだよ、ビル!君は毎日そこかしこと奔走しながら、すべてがうまく運ぶようにと苦心惨憺しているのではないかね?しかも、今の秩序がいつ崩れてもおかしくない、という脅迫観念に縛られているのではないかね?君が朝起きて一番に思うことは何だろう。それは「今日はいったい全体、自分の身に何が起きるのだろう」ということではないかね?ビル、それは恐れというものだ。そしてみな、そんな恐れを常に感じながら、この世を生きているのだ。」


この言葉は痛かった。そして私は、ありとあらゆる感情が自分の中を通り抜けていることに気がついた。中でも目立っていたのは、怒りだった。でも、怒りがいったい何の役に立つというのだろう?確か以前、怒りとは適切な対処方法がわからないときに起こる反応だ、というようなことを聞いたことがある。が、もしも私が、今のディーン氏の言葉に偽りがあるということを本当に知っていたのなら、なぜ怒らなければならないのだろうか?
いや、私はディーン氏の言ったことが疑いのない真実だということを感じとっていた。今宵、門外不出の秘密、かけがえのない真実が、私に明かされたのだ!にもかかわらず、私は弱気になっていた。


「部屋いっぱいに放たれた機械の一群が行ったり来たりしながら、「自分は目標を達成できないのではないか」とか、「自分の選んだ道は間違っていたのではないか」などと、あれこれ心配しながら、あっちの壁やこっちの壁にぶつかったりしている。それで、そのうちの一台が、自分の望むものをまったくの偶然から手に入れることができたとする。ところが、そうなったらそうなったで、遅かれ早かれこの地位からたたき落とされるのではないか、という脅迫観念に縛られることになる。そんな光景をどこかで見たことはないかね、ビル?」


そう言って、彼は微笑んだ。


「そうですね。まるで今の会社そのものです。」


私はここで、ちょっと間を置いて考えた。


「でも、大物ビジネスマンや映画スターのように、成功をものにした人たちはどうなるんですか?」


私は何とかアラさがしをしようとした。
 
「テレビや新聞を見てごらん。成功者の多くが、スキャンダラスな事件に巻き込まれたりして、不幸のどん底にいるのがわかるだろう。なぜかわかるね?」
「今の幸せをいつ失ってしまうかと恐れて、おかしくなってしまうからでしょうか?」
「そう。お金も地位も名声も、悪いことは一つもない。でもそれが恐れの頑強になってしまうのだったら、元も子もないだろう?ラルフ・ウォルドー・エマーソンが、かつて次のようなことを言っていた。「人が土地を所有していたら、同時にその土地が人を所有する」エマーソンは、物質的な成功が人に何をもたらすのかよく知っていたのだ。将来君が成功して財を得たら、その財に振り回されないで、それを活用できる人間になりたいとは思わないかね?そのためには、常に覚醒していることが必要なんだよ」
「そうですね。そんな観点から人生を見てみると、世間一般の考え方や行動といったものは、実のところ怖いものがありますね」
「「怖い」というのは、決して誇張された表現ではないと思うよ。成功の階段を上り詰めたとしても、いつ下から昇ってくる人にたたき落とされるかもしれない、という恐れに縛られていたら、その人の人生は平和だといえるかね?実際、それは悪夢だと思うよ。でもその人が自分の成功にとらわれて我を忘れてしまいさえしなければ、この悪夢は避けられるんだ」


飛行機はロスアンジェルス空港に向かって、下降を始めた。ディーン氏は、窓の外を見つめた。
私は彼を見ながら、父が長年にわたって私の語ってくれた数々の逸話を思い出していた。そして今まさに私は、ファースト・クラスでその人の隣に腰掛けている!私は、今は亡き父がこの場にいることができたらどんなによいだろうかと思った・・・。
 
ディーン氏はすべてを語り終えた。彼は一般の人々にはなじみは薄いものの、業界では尊敬されており、業界紙の表紙を飾ったこと何度かあるほどの人物だ。その彼が、赤の他人である私のために、貴重な時間をさいてくれたのだ。


「ディーンさんもロスアンジェルスでは講演なさるのですか?」


彼は小さな窓から振り返り、少し笑った。


「いや、私はかつてほどは講演をしなくなったんだよ、ビル、昔は君のお父さんがニューヨークで聞いたような講演を数え切れないほど行ったものだが、今夜君に教えたようなことを学んでいくうちに、自分の講演が結局あまり人の役に立ってはいなかった、ということを悟ったものだからね。」
「でも私の父は、貴方の講演に感動していましたよ。貴方をこの世の誰よりも尊敬していたと思います」


私はそう付け加えた。


「確かにあの講演には、正しいこともいくつかあった。でもあの頃の私は、今夜君に語ったようなことをまだ知らないでいたんだ。私の昔の講演は、言うなればやる気を起こさせるためのものだった。それはフットボールのコーチが選手に向かってするように、単に人の気持ちを高揚させる以外の何者でもなかったんだ。一時的な効果はあるものの、あまり長続きはしないんだね。本物ではなかったということだ。風船はふくらませていくうちに弱ってきて、最後には破けてしまうだろう?
ビル、今夜君に話して聞かせた考え方というのは、とても重要なことなのだが、誰もに支持されている、というものでもないんだよ。それが証拠に、私がこのことを講演に取り入れるようになると、それまで毎年のように予約を入れていた会社が、どんどん私から離れていったんだ。
でもある個人的な知己が私に、常に正しいことをするようにと教えてくれた。正しいことさえ実行していれば結果に頓着する必要はない、常に正しい結果がもたらされるだろう、というのだ。その人はまた、「真実に近づけば近づくほど、それを知る人は少なくなる」という言葉を残している。その人の名前は、ヴァーノン・ハワードという。彼は我々の能力に偽りの限界を設けたしまう脳を超越して、真の可能性に目覚めよう、という趣旨の本を何冊か書き記している。彼は疑いなく、今我々が話していたような、別の世界へ抜けた人だったんだね。ビル、この名前を覚えておくといい。知っておくと、今君の進歩を妨げているものから離れて、また一歩前進することができるだろう」
「-西海岸には、単にビジネスでいらっしゃるんですか?」


くどいことはわかっていたが、私はさらにたずねた。


「実をいうと、なぜロスアンジェルスに来たのか自分でもよくわからないんだよ。ここ二、三日というものの、飛行機に乗り込んでロスに行かなければならない、という強い衝動にかられていたんだ。だからそれにしたがった、というわけさ!でも今になって思うと
君とこうして話をするのが目的だったのかもしれないね、、、」


彼は笑って、眉毛を上げた。


「ご一緒できる時間が限られていて、とても残念です」


私はまた独り言を口にしてしまった。


「どうしてこれが残念なことなんだ」


彼はいたずらっぽく、言った。
私たちは、お互いに微笑んで着陸の準備に入った。
 
私は、空席が並んだ飛行機の最後列に席を与えられた結果、ファースト・クラスに移ることができた。なんて幸運なのだろう、と思った。でも、もし状況が逆だったらどうなっていただろう?もし私がファースト・クラスに座っていて、エコノミー・クラスに移るよう頼まれたら、あれほどすばやく了解していただろうか?私の頭脳は多分、エコノミー・クラスはファースト・クラスよりも「劣った」場所であると考えて、その依頼を断っていたかもしれない。もしフランク・ディーンがそこに座っていたらどうなっていただろうか?
 
多分、彼の言ったことは正しいに違いない。
我々はみな、少なくとも一生に一度は別の道を選ぶチャンスを与えられるのだ・・・
 
【解説】
深遠なメッセージ
 
本作品はアメリカの「ファーストブックス」社の出版による著作を翻訳したものです。同社は自己啓発書を主として扱っており、絶版になったり、世間の日の目をみなかったような名著を独自に発掘して、小売店を通さず、通信販売で読者に直売している小規模の出版社です。同社の社長は投資で財を築きあげた富豪で、この出版社の他に、投資のノウハウを教授する通信教育の会社をアメリカおよびイギリスで経営しています。本書は短編ながらハードカバーの豪華な装丁で発行され、「内容が気に入らなかった返金します」という保証つきで世に問われた結果、アメリカ国内でかなりの反響を巻き起こしたそうです。
作者不詳で、手書きの原稿が空港のラウンジの雑誌に挟まれていたという曰くつきのエピソードに加えて、不思議な香気を放つその内容は、読むものの心に忘れえぬ印象を残さずにはおきません。多忙化、複雑化する毎日の生活の中で、とかく自分を見失ってしまいがちな現代人に送られた一服の清涼剤、大人の寓話といった感があります。平易な言葉の裏に秘められた深遠なメッセージを汲み取るために、繰り返しの再読に値する、隠れた名作といえるでしょう。
 

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